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湯野浜ラバーズ・コンチェルト

12月第2週月曜日/11:20AM

 それからの1ヶ月間を、圭一はどこか落ち着かない気分で過ごした。
 注文に応じて料理を創っているとき以外は、ともするとぼんやりしている自分に気がつく。店に入っている予約を確認する回数が増え、そのたびにちょっとだけ渋面になる。そんなことが増えたと、圭一は自覚しないわけにはいかなかった。
 そしてその間にも、海辺の町に吹く風は確実に、その向きや強さを変えていった。
 11月の終わりにはその冬最初の本格的な寒波が訪れ、初雪が舞った。湿り気の少ない、小さな丸い粒のような雪。それはいかにも軽々と海からの風に乗り、地表に落ちても降り積もることなく家々の間を走り抜けていく。市場と店との行き帰り、車の運転席からフロントガラス越しにそんな情景を眺めながら圭一は、風の流れが線となって目に見えるようだなと思った。まるで白い薄い布で織られた紗幕を透かしているかのように、その日は一日中、荒れた海もぼんやりと霞んで映っていた。
 こんな風景が現れる日の間隔が次第に短くなっていき、気がつくと視界が白く覆われない日が珍しくなる。それが日本海に面した町の、時の流れ方なんだ……。そんな風に考えると、1ヶ月前に文緒が残した「クリスマス前にはまた来る」という言葉も、ひどく頼りないものであるように圭一には思われてきた。それは別れ際の、ほんの軽い挨拶だったのかもしれない。あるいはその瞬間には確かにあった想いでも、東京の忙しい日常の中で忘れられてしまったのかもしれない。熱いコーヒーの中に入れられたひとつまみの砂糖が、一瞬で溶けてしまうように。
 圭一は、また来ると言ったときの文緒の表情を思い出そうとした。しかし、もういまとなっては正しく思い浮かべることができているのか、自信が持てなかった。その表情を確かめようと記憶の中を追いかけているとき、圭一の姿はぼんやりと物思いにふけっているように他の人の目には映るらしかった。
 ただそんな曖昧な1ヶ月の間にも、文緒に関して新しく圭一が知ったことがなかったわけではない。そのきっかけとなったのもまた、あの若社長の何気ないひと言だった。
「あの人って、陶芸家なんだってね」
 その日、いつものランチの後の珈琲を飲みながら、ふと思いついたように彼はそう言ったのだった。
「あの人って?」
 圭一がカウンター越しに尋ねると、若社長は軽い口調で答えた。
「ほら、この前、ランチ食べに来ていたあの綺麗な人」
 え? 圭一は虚を突かれて驚いたが、その感情の揺れを表情に出さないように、盛り付けにかかる振りをしてデザート皿に視線を落とした。
「ああ、確か10月の終わりに来た人?」
「おお、よく覚えてるねー」
 圭一はその言葉には答えず、「なんでそんなこと知っているの?」と、できるだけさりげなく聞いてみた。
「ほら、ちょうど席が隣だったから話が弾んでね。お仕事は?って聞いたら、陶芸を作っているんですって教えてくれたんだよね」
 隣といったって、あの時、文緒とこの人との間には確か椅子1席分の距離があったはずだが……と圭一はいぶかしく思う。どうやってほんの短い時間で、そこまで聞き出したのだろう?
「あの日は途中からお客さんがいっぱい来て、山澤くん、忙しそうだったからね」
 その忙しかった時間、圭一が目を離していた隙に、文緒のことについてほかにどんな情報を仕入れたのかが気になった。どう聞き出したものか、その呼び水になるような言葉を探して、圭一は考えをめぐらした。しかしうまく切り出せないでいるうちに、いつもはいつまでもコーヒーをのんびりと飲んでいる若社長が、今日に限って「あ、いけね」と急に何かを思い出したように立ち上がってしまった。
「あれ? 珈琲のお代わりは?」
 いつもの圭一ならまず口にしないセリフだったが、若社長は「いやー、今日は午後から観光協会の会議が入ってたんだった」と答えると、圭一の返事も待たずに「じゃあ」とだけ言い残して、慌ただしく店を出て行ってしまった。圭一は、なにか宙ぶらりんな気分のまま、ランチ営業が終わった店に残されることになった。
 ただ……、と圭一は考えた。それでも文緒が陶芸を職業にしているらしいことはわかった。これは決して小さくない収穫だぞ。
 圭一は店の奥でPCを開くと、「竹内文緒」「陶芸家」で検索をかけてみた。
 もちろんこれまでにも、圭一は何度か検索を試してみたことはあった。それでも「竹内文緒」だけでは漠然としすぎているのだろう、思わしい結果は得られなかったのだ。しかし今日は「陶芸家」というワードを加えたことで、まったく異なる検索結果がモニター上に表示された。
 圭一はひとつずつ、記事をチェックしていった。そして、ある陶芸作品の画像を見つけた。
 それは「瀬川文緒」という陶芸家の作品写真を集めた画像集だった。個性的な陶器の数々が、美しい写真で紹介されている。圭一はそれらの写真に目を奪われた。そこには独特の力が感じられた。
 苗字こそ違っていても、その写真に写っている作品が文緒のものであることに、圭一は一片の疑いも抱かなかった。枯木の台に置かれた真円の皿は、穏やかな若草色で彩色されて芽吹きの予兆を感じさせ、緑苔の上にじかに並べられた小鉢の一群は、真っ白い釉薬に空の青が微かに写り込んでみずみずしい。これは間違いなく、あの人が作ったものだ。圭一はそう直感した。暖かい風の中で最初に振り返った瞬間の文緒の瞳の明るさと、確かに共通する印象が、それらの陶器にはあった。
 ネット上では瀬川文緒に関する雑誌やネットニュースの記事もいくつか見つかった。それらによると彼女は、注目を集めつつある新進陶芸家といった位置づけらしい。圭一は再び、その一つひとつに丹念に目を通した。
 インタビュー記事も読んだ。中に、質問に答える女性の顔を捉えた写真もあった。少しだけうつむき加減になった横顔は、間違いなく文緒だった。彼女はここにいたんだ、と圭一は思った。「瀬川」というアーティストネームを使っていたから、これまでは見つけられなかった。いや、あるいは「竹内」という苗字のほうが、創られたものだったのだろうか?
 ふと気がつくと、検索を始めてからかなりの時間が経過していた。普段だったらディナーの仕込みを始める時刻を、もう過ぎてしまっている。圭一は慌てて椅子から立ち上がった。今日のディナーの予約は何組だっただろうか? 急いで支度に取り掛からなければいけない。
 キッチンに向かおうとして、圭一はふと足を止めて振り返った。
 なぜだろう?
 まだ明るく光っているPCの画面を見た瞬間、何かが胸の中をさっとかすめた。どこか座りのよくない、奇妙な感覚。ごくささやかな、しかし確かな違和感だ。
 なぜ、そんなものを感じたのか?  
 実は圭一がその答えに思い当たったのは、ディナーの営業も終わり、一人で店の床のモップ掛けをしている時だった。
 そう、その感覚の種は、文緒のインタビュー記事の中に潜んでいたものに違いなかった。いわばそれは、目に見えない傷のようなものだった。目には見えない。でも撫でてみると、表面のごく微かな凹凸が指先に引っかかるのだ。
 ディナータイムのBGMにかけたまま、店の中に流しっぱなしにしていたビル・エヴァンスのピアノの旋律の中、丁寧にモップをかけながら圭一は考え続けた。
 ネットで見つけた陶器たちの佇まいは、圭一の中の文緒の残像とぴったりと重なった。だから圭一は、瀬川文緒と竹内文緒が同じ一人の人間なのだと確信することができた。しかし、インタビュー記事の中から立ち上がってくる女性の姿は、どこかが違っているように感じられる。まるで下絵をなぞっているうちにズレてしまったトレーシングペーパーの線のように、記事から読み取れる瀬川文緒と圭一の記憶にある竹内文緒との間には、不思議な距離感があった。
 なぜだろう……?
 しかし圭一は今度は、その答えを探そうとはしなかった。だいたい、クリスマスまではもう3週間もない。あの頼りない約束が果たされる保証もないのだ。そうなれば、文緒と会う機会からして、もう訪れないのだろうから。
 圭一は溜息をつき、モップをしまうと、音楽を止め、店の照明を消した。
 外では雪が降り出したらしい。この冬、二回目の雪。
 そしておそらく、文緒があの約束を果たそうとしなければ、瀬川文緒と竹内文緒は二重線のトレーシングペーパーの画像のまま、圭一の記憶に残されることになったに違いなかった。

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著者プロフィール

星野 青(ほしの・あお)

ライター・編集者。2009年4月〜2010年3月、月刊誌「東京カレンダー」編集長。2009年4月〜2014年3月、JR東日本会員誌「大人の休日倶楽部[ミドル]」クリエイティブ・ディレクター。編著書に、小説『月光川の魚研究会』(2011年/ぴあ刊)、ノンフィクション『空間演出家 池貝知子の仕事と意見』(2012年/アクセス・パブリッシング刊)、『図書館が街を創る。〜「武雄市図書館」という挑戦』(2013年/ネコ・パブリッシング刊)などがある。

バックナンバー

第一話 迷子の時間

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