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湯野浜ラバーズ・コンチェルト

11月第2週火曜日/11:20AM

「ここのところさ、ランチのオープン時間が早くなったよね」
 雨の火曜日のランチタイム。牛蒡のクリームスープを口に運ぶ手をふと止めて、オープンキッチンの中で白身魚のソテーの火加減を見ている圭一に旅館の若社長が声をかけた。まだ雪の季節には少しだけ間がある。
「何か心境の変化でもあったの?」
 多くのシェフもそうだろうと思うのだが、圭一は料理を作っているときに話しかけられるのを、やや苦手にしている。話に興が乗って手もとがおろそかになるのは困るし、かといって答えなければ気難しい人なのだと思われるかもしれない。だったらオープンキッチンになどしなければよかったのにと自分でも思うのだが、まあ、もう造ってしまったものは仕方ない。それにこの町に店を開いたときには、この若社長のようなタイプの客が足繁くやって来ることは、あまり想定していなかった。
「特に忙しい時期でもないのに。労働の尊さに目覚めちゃった?」
 さらにいうとこの話題が、実はいまの圭一には少しだけ腹立たしい。ランチの開店時間を早めなければならなくなった理由というのは、もとをただせばこの若社長の言葉だったのだ。何の自覚もなく軽口をたたいている、その当の本人の呑気な顔を見ながら心穏やかに返事ができるほどには、圭一は人間的に出来てはいない。確か先月の終わり頃からだよね、という若社長の声を今日は黙殺して、圭一は白身魚の皿に小鍋からソースを垂らす作業に没頭している風を装った。
 そう、あの日、「あれー? 今日はこんな時間からやってるの? どうしたの?」とはしゃぐような声を立てながら店に入ってきたことなど、この人はもうすっかり忘れているのだと、圭一は思う。あの、文緒が店を訪れた日のことだ。
 わざわざ飛行機に乗って訪れてくれたゲストに「まだ開店前ですので外でお待ち下さい」とはさすがに言えず、なんとなく店内に案内してしまった圭一は、ランチの準備をしながらも文緒のことが気にかかった。一人で放っておくのは気が引けて、「先に何かお飲みになりますか?」と圭一は声をかけた。スツールに座って店内の様子を見回していた文緒はその声に振り向くと、カウンター越しに立つ圭一の目を一瞬見つめてから「じゃあ、グラスワインの白を」と少しはずんだような声で答えた。
「ランガージュ・ドゥ・ヴァンって、どういう意味ですか? ヴァンはフランス語でワイン?」
「いや、ワインのヴァンとはスペルが違うんです。風という意味の言葉。だからランガージュ・ドゥ・ヴァンで風の言葉」
「風の言葉……なんだかレストランぽくない名前ですね。うーん、なんだろ、例えば」
「本屋の名前みたい?」
「そう! 本屋さん。いや、古本屋さんかな」
「初めてこの町に来たのが風の強い日で。海からの風の音が、本当に何かを叫んでいる声みたいに聴こえたんです。それでこんな名前にしたんですけど」
「でも今日はまるっきり穏やかですよね、海も風も」
「そう、住んでみると、当たり前だけど季節によって、天候によって、時刻によって、風はまるで違う音を立てる。いろいろな言葉を話すんですね、ここの風は」

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 そんな話をしながら圭一は、文緒がやって来たのがオープン前の時間でかえってよかったと思った。本当のランチ時間が始まってしまえば、一人のゲストとばかり話をしているわけにもいかない。たとえ、もう少し話がしたいと思っても。
 ……と、そこに若社長が登場したのである。
 正直なところ、圭一はかすかに舌打ちしたい気持ちになった。しかも文緒の姿を目に留めた彼は、文緒の席からひとつだけ開けたカウンター席に腰を下ろした。いつもはカウンターの端を定位置にしている彼が、なぜか席二つ分、中央に進出した格好だ。
 本当はこのとき圭一は、文緒がなぜやって来たのか、どうしてこの店を知ったのかを尋ねる機会をうかがっているところだった。————「ところで、うちの店のことはどなたかにお聞きになったのですか?」とか。しかし、こみいった話を聞かせるには、あまりふさわしいとは言えない人物が文緒の隣の隣の席にいる。仕方なく圭一は文緒との会話を切り上げると、調理に専念することにした。いや、正確に言えば専念しようと試みた。やがていつものオープン時間が過ぎ、さして広くない店内はゲストでほぼ埋まった。
 それでももう一度だけ、文緒と圭一が言葉を交わす機会はあった。食事を終えた文緒が会計を済ませようとしたときだ。視線を落として釣り銭を数えながら、圭一はできるだけさりげなく響くように注意しながら「ところで竹内さん」と話しかけた。
「どうしてうちのことをお知りになったんですか?」
 一瞬待ってみたが、返事はなかった。あれ?と思って目を上げると、そこにはあの風の中で見た文緒の明るい瞳があった。彼女は笑っていた。そして文緒は無言で左手を上げてみせた。その手首にはきらっと光るものがあった。圭一は「あっ」と思った。
 文緒の手首には、あの時計が巻かれていた。
「どうもありがとうございました」
 文緒はそう言うと、頭を下げた。その言葉はいまの料理に向けられたものか、それともこの左手首の時計に対するものか、圭一にはわからなかった。
「また来ます」と文緒は言った。
「できればクリスマス前には」
 その言葉を、いまは細かく聞かないでほしいという意味だと圭一は受け取った。だから圭一はただ、「はい」と返事をした。
「お待ちしています」
 文緒はもう一度、圭一の目を見た。そして笑顔のままで圭一にもう一度頭を下げると、くるりと背を向けてドアを開き、小春日和の陽射しの中に出て行った。店の前で会ったときに文緒が言った「寄る場所があった」というのは、警察の遺失物係の窓口だったんだな……。そんなことを考えながら圭一が文緒の背中を目で追っていると、彼女は振り返り、ガラス越しに一度、手を振ってみせた。
 だからあの日以来、ランガージュ・ドゥ・ヴァンのランチのオープン時間は、15分だけ前倒しになった。ただ、あのとき文緒のためにルーティーンより早く店を開けたのだと思われるのが癪に障るから、という営業時間変更の理由を、あの若社長が気づいているのかどうか、いまのところ圭一にはわかっていない。 

 
 

著者プロフィール

星野 青(ほしの・あお)

ライター・編集者。2009年4月〜2010年3月、月刊誌「東京カレンダー」編集長。2009年4月〜2014年3月、JR東日本会員誌「大人の休日倶楽部[ミドル]」クリエイティブ・ディレクター。編著書に、小説『月光川の魚研究会』(2011年/ぴあ刊)、ノンフィクション『空間演出家 池貝知子の仕事と意見』(2012年/アクセス・パブリッシング刊)、『図書館が街を創る。〜「武雄市図書館」という挑戦』(2013年/ネコ・パブリッシング刊)などがある。

バックナンバー

第一話 迷子の時間

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