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湯野浜ラバーズ・コンチェルト

10月第4週金曜日/11:00AM

 圭一が初めて文緒の姿を目にしたとき、彼女は風の中に立っていた。
 それは、竹内史緒という名前での予約が入っていた日。ランチの営業が始まる30分ほど前、仕込みが一段落ついたところで、圭一はふと天気が気になって店の外に出てみた。どういう理由でかはわからないけれど、わざわざ飛行機に乗って訪れてくれるゲストのためにも、空と海が青くあってほしいと思ったからだ。この海辺の町は、晴れている日と曇っている日とではまったく印象が変わってしまう。
 水平線から町の上を通り越して丘の先までをおおった空は、そんな圭一のささやかな願いそのままの、申し分ない秋晴れだった。店の前からは見えないけれど、浜辺にまで出れば鳥海山の山頂までもすっきりと眼に映るだろう。ここから直線距離で40kmほど北にある鳥海山は、一説では地球上で最も雨の多い場所ともいわれていて、いつも雲に隠されているその山頂が姿を表すのは、とりわけこの季節にあってはちょっと特別なことなのだ。そして今日がその特別な一日にあたっていたことが、店のドアを開けた瞬間に空を見上げるまでもなく、圭一にはわかった。まるで春の日のような柔らかくて穏やかな風が、店の中に吹き込んできたからだ。圭一は小さな安堵を胸の中に転がしながら、ドアから外に一歩踏み出した。風に乗って波音がした。
 そして圭一はそこに、彼女の背中を見つけた。

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 彼女はそのとき、圭一の店に背を向けるようにして海を見ているようだった。圭一の店の前を走る細い舗道は、並行する国道からは少しだけ坂を登った高い位置にあり、だから家々の隙間から見下ろすと、国道とその先に広がる砂浜越しに海がのぞく。彼女はちょうど、そんな海の見える場所に立っていた。彼女のすっきりと伸びた背中越しに、正午近くの南からの陽射しを受けて沖合で波光がきらめくのが見えた。
 そんな海からの光の中に、影絵のように浮かび上がった文緒の背中を、圭一は道の反対側からしばらく眺めていた。そして、なぜか風の中にいるのが似合う人だなと、ふと思った。と、その瞬間、その女性はゆっくりと振り向いた。そしてそこに圭一の姿を見とめると、真っ直ぐに彼の顔に視線を向けた。圭一は彼女の顔を正面から見て、瞳の明るい人だなと、今度はそう思った。彼女が表情を崩して微笑んだ。また風が起こって、二人の間をさあっと吹き抜けた。
「山澤さんですか?」
 彼女は一度小さく会釈するような仕草を見せると、ゆっくりと圭一のほうに向けて歩き始めた。そしてそう問いかけながら、圭一の立っている場所から2歩ほど手前で止まった。圭一が「ええ」とうなずくと、彼女はよく通る声で「予約した竹内です」と言って、もう一度会釈した。
 その瞬間の彼女の印象を、圭一はずっと忘れることはなかった。だから圭一の胸の中には文緒の姿は、暖かい風の中に立つ姿として、その後長く刻印されることになる。アルバムの最初のページに留められた、懐かしい一葉の写真のように。
「お店、もう入れるんですか?」
文緒は少し弾むような声で、圭一にそう尋ねてきた。いつもなら11時半までは客を店内に案内することはしないのだが、文緒の声にあまりにも屈託がなかったためか、圭一はごく自然に、もう一度うなずいてしまった。
「よかった。ちょっと時間が余ってしまって、どうしようかと思っていたんです」
「え? 朝イチの飛行機でいらっしゃったんですか?」と問い返しながら、圭一は少し驚いていた。昨日のうちから来たのでなければ、文緒は朝7時前に羽田を出る全日空機に乗ったことになる。庄内空港着は確か7時55分。てっきり、次の11時55分着の便で来るのだと思い込んでいた。
「ええ、うかがう前にちょっと寄りたいところもあったし。でも、それでも思ったより時間が余ってしまって」
 文緒のその言葉を聞いて、圭一の胸には少しだけ安心したような、それでいて微かに残念なような、不思議な気持ちが広がった。ああ、やっぱり何かの用事のついでに、この店に来てみる気になったんだな、と。ただ、それがなぜ残念に思えるのか、そしてなぜ安心させるのかは、自分でもよくわからなかった。
「ともかく、中にどうぞ」
 割り切れない想いを顔に出さないようにしながら、圭一は笑顔で文緒を促した。彼女もにっこり笑いながら「はい」と答えると、圭一が開いたドアを抜けて、店の中へと歩みを進めた。そして「うわ」と小さな歓声を上げた。
「素敵なお店。想像していた通りです」
 何をもとに、どんな想像をしていたのだろう?と、圭一の胸にはまた、訝しく思う気持ちが湧いたが、ここでも彼はそれを口にはしなかった。

著者プロフィール

星野 青(ほしの・あお)

ライター・編集者。2009年4月〜2010年3月、月刊誌「東京カレンダー」編集長。2009年4月〜2014年3月、JR東日本会員誌「大人の休日倶楽部[ミドル]」クリエイティブ・ディレクター。編著書に、小説『月光川の魚研究会』(2011年/ぴあ刊)、ノンフィクション『空間演出家 池貝知子の仕事と意見』(2012年/アクセス・パブリッシング刊)、『図書館が街を創る。〜「武雄市図書館」という挑戦』(2013年/ネコ・パブリッシング刊)などがある。

バックナンバー

第一話 迷子の時間

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