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湯野浜ラバーズ・コンチェルト

10月第3週土曜日/8:30AM

 圭一がこの海辺の町で営んでいるレストラン「langage du vent(ランガージュ・デュ・ヴァン)」は、決して大きなハコではない。下見板張りというのか、細長い羽目板を重ねた外壁の木造二階建ての一軒家で、1階は店舗、2階は圭一のささやかな住まいになっている。店は4人掛けのテーブル席が2つとカウンターに6席。詰め込む気になればもう少しは入るのだろうけれど、とりあえずそれだけのキャパシティを、アルバイトを一人雇って回している。だいたい、料理のオーダーに追いまくられるだけの生活に疲れ果てて、東京を引き払ってきたのだ。少人数のゲストを相手に、じっくりと料理が作れたら……という想いが昂じて、店舗は用意するからという常連客の誘いに乗って、その出資者の故郷である山形にやって来たのだ。
 とはいっても店を現実に始めてみれば、静かな温泉郷でゆったり自分のペースで暮らす、なんていう日々が過ごせるわけもない。潮風にさらされてやや古びた印象を放っていた建物をリノベーションし、自分で木の壁を白いペンキで塗っていたころこそ、まだどこかのんびりした気分を楽しむ余裕もあったのだが、そうして店が出来上がってみればランチもディナーもやっぱり忙しい。そうして3度の夏と2度の冬を過ごした圭一には、純白の壁がこの町の風景に映えるのは、実はそれほど長いとはいえない夏の間だけであることもわかってきていた。機会があればいつか、ほんの少しだけくすんだ色が混じった青にでも壁の色を塗り替えられればとも思うのだが、いまはもう自分の手で塗り替えるだけの余裕なんて持てないだろうなと、圭一は苦笑するような気分で今日も料理を作っている。

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 それでも、これまでに圭一が勤めてきた広尾や麻布の人気店とは事情が違うのも確かだった。予約だけで毎日席が埋まってしまうというわけではないし、予約の電話がひっきりなしにかかってくるわけでもない。いまの圭一にとっては、オンラインの予約システムなどは金星の周回軌道に投入されるはずの無人探査機と同じくらいに自分の日常からは遠く離れた存在だし、そう思えるようになったことにほっとする気持ちも少なからずあった。だから土曜日の朝、仕入れた魚と野菜を店に運び込んでPCを立ち上げたとき、店のホームページのアドレスに「予約したい」というメールが届いているのを見つけて、圭一は思わず「うん?」と声を上げた。この店では予約はほとんどが電話でなされるものであって、ネットを通して行われることは、これまでにはまずなかったのだから。
「もし席に余裕があれば来週の金曜日のランチを予約したいのですが、いかがでしょう」
 メールを開いてみると、届いたメッセージにはそう書かれていた。人数は1人。これも珍しい。
「もし席が取れるようなら、お手数ですがご連絡いただけるとありがたいです。飛行機の予約をしないといけないので」
 ここまで読み進めて、圭一はさらに驚いた。わざわざ自分の店で食事をするために、この人は飛行機に乗ってくるつもりなのだろうか? もともと用事があって庄内地方に来るついでに立ち寄りたいというのならまだわからなくもないけれど、この文面からすると予約を断られたら飛行機のチケットは買わないと読める。東京のころの常連客の一人だろうか? しかしメールの差出人である「竹内文緒」という名前は、圭一にはまるで覚えがなかった。
「うーん」と、圭一はPCの画面に向かってうなった。誰か友人の知り合いか。いや、たとえそうだとしても、たった一人で飛行機に乗って初めての店までランチに来るというのは、ちょっと大げさというか、物好きすぎないだろうか? 自分の店がそこまで思ってもらえる理由も、ちょっと思いつかない……。
「しかし、まあ、ともかく」
 何度かメールを読み返してみてから、圭一は独り言をつぶやいた。
 そう、真意はどうにも測りかねるけれど、しかしまあともかく、断る理由はない。翌週の金曜日の昼は、まだ席に余裕もある。
 圭一はキーボードを叩いて、席の用意をしておくと返信をした。そして、アレルギーや苦手な食材などがあれば事前に教えておいてほしい、またもし来店できなくなった場合は前日でも当日でもいいので連絡してほしいと、メールに付け加えておいた。別に1人分の食材が浮いてしまったところでそう困ることはないのだが、いつまでも来るか来ないか気を揉むようなことになるのは、ちょっと嫌だった。
「予約していただくのが恥ずかしいような田舎の小さな店ですが、お会いできるのを楽しみにしております」
 そう結んでメール画面の送信ボタンをクリックしたとき、一瞬、胸の中に何かが走ったような感触があった。しかしその胸騒ぎのような感覚が何を意味しているものなのか、どこから生まれてきたものなのかは、まるでわからなかった。
 圭一はもう一度、「うーん」とうなり、そしてもう一度、「ともかく」と繰り返した。
 ともかく……。その後にどんな言葉を続ければいいのか、圭一本人にもよくわからなかったけれど。
 圭一がホームページに腕時計を見つけたことを書き込んでから、ぴったり10日後のことだった。

著者プロフィール

星野 青(ほしの・あお)

ライター・編集者。2009年4月〜2010年3月、月刊誌「東京カレンダー」編集長。2009年4月〜2014年3月、JR東日本会員誌「大人の休日倶楽部[ミドル]」クリエイティブ・ディレクター。編著書に、小説『月光川の魚研究会』(2011年/ぴあ刊)、ノンフィクション『空間演出家 池貝知子の仕事と意見』(2012年/アクセス・パブリッシング刊)、『図書館が街を創る。〜「武雄市図書館」という挑戦』(2013年/ネコ・パブリッシング刊)などがある。

バックナンバー

第一話 迷子の時間

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