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湯野浜ラバーズ・コンチェルト

10月第2週火曜日/8:25AM

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 山形県、湯野浜海岸。その名の通り一帯から温泉が湧き出し、落ち着いた温泉郷が広がるこの海沿いの土地にあっては、浜辺に吹く風が季節の移り変わりを告げる。それが夏であれば、朝凪と夕凪の時刻をはさんで海からと陸からとと方向を変えながら、風は波打ち際を埋める日焼けした海水浴客たちの歓声を載せて流れていく。しかし冬になれば、それは昼夜を問わず水平線の向こうから駆け足で寄せ来ては、鉛色の日本海の表面に白い波頭の模様を描き出すことになる。
 だからこの海岸の近くに暮らす人々は、砂浜を歩くときに頬を打つ風の強さで秋の深まりに気づく。そして、どこか遠い眼をしてみせることになるのだ。ああ、もうこれからはただ冬に向かっていくだけなんだな……とでも言いたげに。
 山澤圭一が一本の腕時計を砂の中に見つけたのは、そんな季節の背中を秋へと押していく風が強くなったのを感じさせる、10月のよく晴れた火曜日の午前のことだった。
「あれ?」
 圭一は最初、それを流れ着いたガラス瓶のかけらか何かかと思った。毎朝通っている、小さな漁港の一画に作られた市場からの帰り。日の出前にライトをつけて漁港に向かった道を逆に戻り、家の近くの浜辺に面した駐車場に車を停めて、何気なく水平線のほうに圭一が視線を走らせたとき、小さな光の粒を彼は視界の片隅に捉えたのだった。
 夏のころよりははっきりと低くなった陽射しが、海岸線に沿って走る国道の脇に建てられた温泉旅館の屋根のシルエットを浜辺の上に描き出している。そのちょうど光と影の境界線のあたり。その光は夜空の星のように、かすかに瞬いて見えた。
 圭一は車のドアを開けて外に出ると、駐車場から家の方向ではなく波打ち際に向かって歩き始めた。駐車場と砂浜との間には仕切りもなく、だから海からの風が強く吹く季節には巻き上げられた砂が駐車場のアスファルトの上にも積もる。圭一の足元で、スニーカーの靴底と砂粒がこすれ合う小さな音がした。ああ、これも秋の始まりの音だ、と圭一は思った。
 空は透き通るように青く、ごく薄い雲が高いところに浮かんでいた。浜辺は通り過ぎた夏の日々が蜃気楼か幻だったかのように静まり返っていて、波の音が澄んだ余韻の尾を曳いて繰り返し響いた。圭一はその明るい音の中を、キラキラと不規則にきらめく光に向かって進んでいった。そして手に触れられるほどまで近づいてみて初めて、それが砂の中になかば埋もれた腕時計なのだと気づいたのだった。
「あー、なんだ」と、圭一の口から思わずそんな声が出た。
 砂の感触を楽しもうと素足で歩くうちに砂の中のガラス片に気づかずに足の裏を切ってしまう、そんな人が出ないようにと確かめに来る気になったのだが、気の回しすぎだったらしい。拾い上げた腕時計は女性用らしく、たとえ誤って踏んでも、それで怪我を負うことなどはまずなさそうな、華奢なデザインだった。ブレスレットのような金属の環に、小ぶりな文字盤が載っている。環の素材は銀なのだろうか、陽光を受けて滑らかな光を放っている。駐車場から見えたのは、この光だったらしい。おそらく上にかかっていた砂が海風が吹くたびに少しずつ動いて、遠くからだと瞬くように映ったのだろう。圭一は一度、時計を陽にかざすようにして見てみてから、文字盤についた砂を払った。
 さてと……。
 どうしたものかな。と圭一は思った。
 特に危ないものでもないし、このままこの場所に置いていってしまうか。ほんの偶然で見つけただけなのだし、気づかなかったことにしてしまっても、気がとがめる理由もない。だいたい、この腕時計が失くしたか落としたかしたものだったとして、持ち主にとって大切なものであれば、探しに戻ってくるだろう。落とした場所がわからないのであれば、それはそれだけの話だろうし、逆に場所に見当がつくのだったら、自分が持って行ってしまうのは、かえって不親切かもしれない。
しかしそれでも、圭一はその時計を元の砂の中に戻そうとはしなかった。理由がある。その腕時計の針が、まだ時間を刻み続けていたからだった。
 そう、時計は確かに動いていた。秒針は中距離走者のように文字盤のトラック上を正確なピッチで周回し、分針は正午の頂上を目指してじりじりと登攀を行っている。耳を近づければ、本当にかすかな歯車の音まで聴こえてきそうだ。
この時計はまだ生きているんだ。圭一はそう思った。
 なぜこの時計が砂に埋まっていたのかはわからない。でもこの時計はまだ、こうして拍動を続けている。それだけははっきりしている。ここに残したままにしてしまえば、時計は遠からず止まるだろう。それではこの時計がこれまでに刻んできた時間が無駄になるような、そんな気がした。もちろん、それがまったく筋の通らない、子どもじみた想いだという自覚はあった。圭一は少しだけ苦笑するような表情で、しかし時計を手にして駐車場へと砂の上を戻り始めた。ついいましがた、自分が砂浜につけた足跡がまだ残っている。それを逆に進むように、圭一は歩みを進めた。
 なんだか、この時計に呼ばれたみたいだな。
 圭一のてのひらの中の陽だまりで、腕時計がもう一度、キラリと光った。

 

 

 

 

続く……

著者プロフィール

星野 青(ほしの・あお)

ライター・編集者。2009年4月〜2010年3月、月刊誌「東京カレンダー」編集長。2009年4月〜2014年3月、JR東日本会員誌「大人の休日倶楽部[ミドル]」クリエイティブ・ディレクター。編著書に、小説『月光川の魚研究会』(2011年/ぴあ刊)、ノンフィクション『空間演出家 池貝知子の仕事と意見』(2012年/アクセス・パブリッシング刊)、『図書館が街を創る。〜「武雄市図書館」という挑戦』(2013年/ネコ・パブリッシング刊)などがある。

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第一話 迷子の時間

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